1996年5月14日、遠い空の上に。
【長文につき読みたい人だけどうぞ】
20年前の1996年5月14日。
ちょうど今ぐらいの時間に1本の電話。
病院にいる父親からの電話。
「お母さんの容態が急変した。すぐに来い」と。
安定していた心電図が急に乱れて、こうして電話をしているうちにも「0」になるらしい。
ゼロになって、また少し動き出して、、、その繰り返しだったそうだ。
とうとうこの日が来るのか、、、、いや、まだ死なないだろう。死ぬはずない。
3月半ばまで持たないって余命宣告されてたのに、5月まで生きているんだから。
なんて思いながら車を走らせた。
雨が降っていた。
病院に着いたら、ほとんどの親戚が揃っていた。
それでもなぜか「親戚まで呼んで大げさな」なんて思ったりもしていた。
だって、絶対死なないと思っていたから。
祖父と祖母も到着した。
癌だと知らなかったじいちゃんとばあちゃん。
娘を先に失ってしまう気持ちはどれほどの思いだっただろうか?
親族が全員揃った朝方5時頃。
さっきまで行ったり来たりしていた心電図が「ゼロ」から動かなくなった。
まるで、全員揃うのを待っていたかのように
「もう頑張らなくて良いから」と父親が話しかけたその直後に
母親は、遠い空の上に行きました。
20年前の5月14日の朝は
昨日まで降っていた雨がすっかり止んで、まぶしいぐらいの天気だった。
黄色い菜の花畑がとてもキレイだった。
母親を失って悲しいはずなのにその日はなぜか
「しっかりしなきゃ」と冷静だった。
でも、その次の日からものすごい後悔の日々だった。
姉と父親に看病をまかせっきりで
私は何もしてあげれなかった。
なんて親不孝なんだろう。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい
毎日毎日、母親の棺の前で謝った。
まだ子供だった私は、お通夜や葬儀の段取りも分からず
喪服だって持ってなかった
毎日、近所の人や親戚が押し寄せてくる
とうとう火葬の日が来た
母親が火葬炉 に運ばれていく時
これが、今まで生きてきた中で一番辛かった一瞬だった
享年46歳
まだまだやりたいことがあったと思う
これから親孝行と言うときだった
私は、特にやりたいこともなくただ母親に認めて欲しくて
安定した職業の金融機関に入った。
あれから20年
私は、母親が望んでいた「安定した職業」ではない仕事をするようになって
大船渡からも出てしまった
母親が生きていたら、どれだけ心配しただろうか?
遠い空の上の母親は
どんな風に今の私を見ているだろう?
応援してるだろうか?
それとも、早く辞めなさいと怒っているだろうか?
生きていたら、どんな風に私にアドバイスしただろう?
そんな想いをいつか曲にしようと思って作ったのが
「遠い空の上で」と言う曲。
母親に向けて書いた手紙のような曲です。
今日は、たった一人のあなたのために歌いますね。